財団法人 東京海上各務記念財団
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財団概要 情報公開 活動記録
1 連絡先
住所:

〒143-0016
東京都大田区大森北 1-5-1( 大森駅東口ビル )

電話:
03-3761-6499
FAX:
03-3761-5261
E-Mail:
kagami-f@ceres.ocn.ne.jp
URL:
http//www.kagami-f.or.jp/
英文名:
Tokio Marine Kagami Memorial Foundation
事務局:
内田常務理事(事務局長兼務) 山崎職員
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2 事業
・奨学金給与 国内大学生対象 (指定大学10校)
  ASEAN留学生大学院生対象 (指定大学8校)
・海外研究費助成
・学術の研究および普及に対する助成
・地震研究助成

詳細は当ホームページの情報公開の部(事業報告書及び事業計画書)をご参照ください
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3 沿革
(1)設立 昭和14年(1939年)10月21日 

当財団のもともとの名称は各務(かがみ)記念財団です。それはこの財団が東京海上火災保険株式会社(現 東京海上日動火災保険株式会社)の会長を永年勤められた故各務鎌吉(かがみけんきち)氏の遺志(注)に基づき寄贈された200万円をもとに設立されたからです。当時の文部省への設立許可申請書は昭和14年9月1日付けで行なわれ、許可が下りたのが同年10月21日ですが、その後、東京海上、明治火災、三菱海上、日本郵船その他故人の関係した各社から約385万円の寄付があり、合計585万円の基本財産で事業を開始しました。

この設立にあたっては故人と関係の深かった各務幸一郎(各務鎌吉氏実兄)、平生釟三郎(元東京海上専務取締役)、大谷登(日本郵船取締役社長)、加藤武男(三菱銀行取締役会長)、鈴木祥枝(東京海上取締役社長)の5名が設立名義人となり文部大臣への申請が行なわれました。
    
(注)各務記念財団設立趣旨 ファイル (PDF:13KB)

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(2)名称変更 昭和35年(1960年)1月14日 
設立後昭和15年には学術研究助成、昭和16年より奨学金の給与事業を開始し、第二次世界大戦の間、そして戦後の厳しい経済環境を越えて事業をつづけました。しかし、日本経済の復興発展と共に必要とされる資金の額が増加し、また各務氏との接触のあった東京海上社との人的な関係が薄らぐことが危惧されることとなったため、昭和35年(1960年) 1月13日に東京海上社の創立80周年記念事業の一環として500万円の寄付金を受領し、同14日に文部省の認可をうけて財団の名称を東京海上各務記念財団と変更しました。これをもって名実共に財団は東京海上火災保険株式会社の企業財団として着実な発展の道筋に乗ることができました。

その後の日本経済の大きなうねりと社会のニーズの変化の中で財団は個々の事業内容に変更を加えてまいりましたが財団の設立趣旨に述べられた各務鎌吉氏の遺志に副った事業を引き続き継続しております。

現在では当初の基本財産585万円が東京海上社他からのその後の寄付等により11億4800万円(注)となっております。

(注)時価会計の導入により、毎年の評価額が変化します。
   詳細は事業報告書をご参照ください。

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4 各務鎌吉について
各務鎌吉は明治元年(1868年)12月22日岐阜県に生まれ、同21年、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業、教員等の経験を経て同24年10月東京海上保険株式会社に入社しました。当初の仕事は簿記係で初任給は10円であったといわれています。同32年本店営業部長、大正6年専務取締役、同14年に取締役会長に就任し、昭和14年5月27日に逝去するまで会長を務めました。

各務は入社して3年足らずの、明治27年7月、ロンドンに派遣されました。東京海上社は明治12年(1879年)に創設された日本で初めての損害保険会社です。財界の指導者であった渋沢栄一の助言により海運界の雄だった岩崎弥太郎はじめ当時の一流財界人と旧藩主出身の華族グループを株主にした会社です。営業は競争相手のいない中で政府関係の貨物保険を引き受け、さらに、三菱会社、三井物産という海運と貿易の二大会社に代理店を委嘱してパリ、ロンドン、ニューヨークと代理店網を広げて順調に推移していましたが、明治24年ごろからヨーロッパの営業、特にイギリスの船舶保険が赤字を出すようになっていたのです。当時イギリスは海運業において世界に君臨し各国の海上保険会社はその契約を求めてロンドンを中心に進出していた時期です。

しかし保険金の支払いは急増し創業以来初の危機にさらされることになります。この原因究明と対策のために派遣された各務はロンドンにて自らが保険の専門家になるしかないと決断し、従来の代理店との関係を解消しロンドン支店として活動を開始します。そしてイギリス人に任せきっていた引受けの内容を全て調べ上げ独力で保険統計を作り上げます。その資料の上に立ってイギリス人の担当者を論破し引受けの見直しを行い見事に海外営業を立ち直らせる道筋を作ったのです。この間の超人的な奮闘努力ぶりは後に「東京海上の各務か、各務の東京海上か」といわれることとなり、また「日本の損保事業王」と謳われることとなる下地となったものです。

各務は彼がロンドンに向かったあと入社した平生釟三郎(ひらおはちさぶろう)と明治30年ロンドンにて再会し、今後のイギリスでの営業につき様々な意見交換を行います。その結果、明治32年にロンドン支店を閉じる決断をし、新たにウィルス商会を代理店に委嘱して帰国します。各務は当時を振り返り「平生君と二人で東京海上の海外営業に新しい時代を作った」と述べています。世界の「トウキョウマリン」と呼ばれる礎をこのとき作ったといえるでしょう。
Photo
写真中央が各務、左端が平生
明治32年に帰国した各務は抜擢されて本店営業部長に就任します。平生はアメリカ、サンフランシスコ経由帰国しその後同33年大阪支店長兼神戸支店長として関西の営業を担当します。後年昭和11年文部大臣となり会社を退社するまで各務を支援し東京海上社を支えます。

それ以降様々な出来事や問題が発生しますが特筆することとして大正12年9月1日の関東大震災があります。この震災は首都圏の経済社会に壊滅的な打撃を与えました。地震による火災ですから保険会社は保険金を支払う責任を免除されています。しかし、非常事態のもとで人心は動揺し、火災保険支払い問題は重大な社会、政治問題へと発展しました。そのとき当時大日本連合火災保険協会の会長であった各務が利害の異なる関東、関西あるいは外資系の保険会社の様々な意見を取りまとめ政府と折衝したのです。すなわち、保険金額の最高一割を見舞金として支払い、その見舞金の原資を政府が長期低利で融資するというものでした。政府の援助が無ければ見舞金の出せない会社も少なくなかったわけで、社会情勢を見極めながら業界をリードした各務の奮闘は高く評価されるものでありました。

各務は先に述べたように東京海上社の会長に大正14年に就任していますが昭和2年には三菱信託会長、同4年には日本郵船社長、後会長、三菱銀行監査役、同5年貴族院議員、同8年損害保険事業研究所理事長、同11年明治生命取締役、同12年日本銀行参与理事、大蔵省顧問等々様々な政財界の要職についています。

昭和14年5月27日、東京海上、明治火災、三菱海上、東明火災の会長のまま71歳で逝去しました。日本の損害保険業界を育て上げた功績を日本の国内新聞は称え、イギリスの The Times 紙はその一面に各務の親友であり、同時期に日英で共に会長として活躍した ウィルス商会のジョージスタンプ氏の追悼文を掲載し哀悼の意を表しました。

現在、東京海上日動社では同社の能力開発センター(在東京都渋谷区千駄ヶ谷)に各務ホールという研修室を設けて、氏の人材育成の遺志を引き継いでおります。  
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